裏切りの契り。 〜涙に濡れた愛の果て〜

裏切りの契り。 〜涙に濡れた愛の果て〜

last updateDernière mise à jour : 2025-12-26
Par:  伊桜らなEn cours
Langue: Japanese
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15歳の橘美咲(たちばな みさき)は、一場の惨烈な交通事故で両親を同時に失った。もう一台の車には、日本屈指の財閥「神宮寺グループ」の当主夫妻が乗っており、美咲の通報と救護によって命を取り留めた。 神宮寺夫妻はこの恩を忘れなかった。15歳の美咲を東京の貴族学校に入学させ、18歳の兄 橘英司(たちばな えいじ) をアメリカ・マサチューセッツ工科大学へ送り、金融を学ばせた。 さらに彼らは、マスコミの前で堂々と宣言する—— 「美咲が18歳になったら、我が息子神宮寺哲也(じんぐうじ てつや)と結婚させる」 しかし、その時16歳だった哲也には、すでに心に決めた相手がいたーー。

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Chapitre 1

第1話

白い壁に囲まれた診察室は、消毒液の匂いが鼻をつき、どこか無機質で冷たい空気を漂わせていた。蛍光灯の光が眩しく、壁に映る自分の影がやけに薄く見えた。机の向こうで、医師がカルテをめくる音がカサカサと響く。眼鏡の奥の目が細まり、低く落ち着いた声が告げた。

「おめでとうございます。橘さん、妊娠されていますよ」

その一言が、まるで重い石を水面に投じたように、私の心に波紋を広げた。世界の輪郭がぐにゃりと歪み、時間が一瞬止まった気がした。耳鳴りがして、頭の中が白く霞む。

――私の中に、命が宿っている。

「……え」

思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。反射的に指先でお腹をそっと押さえてみる。だが、そこにはまだ何の変化も感じられない。ただ、心臓の鼓動がやけに速くなり、全身を血が駆け巡る感覚だけがリアルだった。胸の奥で、喜びと不安がせめぎ合う。

「週数としては、まだ初期段階です。順調に育っていますが、これから気をつけることは多いですよ」

医師は淡々と説明を続けた。栄養バランス、適度な運動、アルコールやカフェインの制限、体を冷やさないための注意……。言葉の一つ一つは頭に入ってくるのに、心はどこか別の場所を漂っていた。まるで現実から一歩離れた、夢のような空間にいるかのようだった。

――私が、母親になる?

白い部屋の中で、ふと母の面影が浮かんだ。七年前、交通事故で突然この世を去った母。いつも穏やかに微笑み、私の髪を撫でてくれたあの温かい手。事故の日の朝、最後に交わした何気ない会話――「美咲、今日も元気でね」。その声が、今も胸の奥で鮮やかに響く。母の笑顔を思い出すたび、涙腺が緩むのを抑えきれなかった。

診察室を出ると、病院の廊下は人の足音と話し声でざわめいていた。看護師の呼び出しアナウンス、患者の家族のひそひそ話、車椅子の軋む音。それらが雑踏のように混ざり合い、耳に遠く響く。私はただ、自分の靴音だけを頼りに歩いていた。頭の中は「命」という言葉で埋め尽くされ、他の音はまるで海の底から聞こえるようにくぐもっていた。

***

病院の玄関を出ると、12月の冷たい風が頬を刺した。吐いた息が白く舞い、夜空に溶けていく。街はクリスマス前の華やぎに包まれ、ガラス張りのビルには色とりどりのイルミネーションが映り込んでいた。通り過ぎるカップルの笑い声や、子どもが母親にねだる声が耳に届くたび、胸の奥がちくりと痛んだ。

私の人生は、いつもどこかで欠けているものがあった。両親を失い、孤独と義務だけを抱えて生きてきた。神宮寺家に引き取られ、哲也さんとの政略結婚。そこに愛はなく、ただ形式的な絆だけが私を縛っていた。心から「愛されている」と感じたことなんて、一度もない。

でも、今日からは違う。お腹に宿った小さな命は、どんなに弱くても、私と共にある。この子は、私が守るべき存在だ。指先でお腹に触れると、かすかな温もりが感じられる気がした。不安と希望が交錯する中、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

画面に表示された名前を見て、息が止まった。

――兄さん。

「もしもし!」

慌てて応答すると、懐かしい低い声が耳に響いた。

『美咲、久しぶりだな』

涙がこみ上げた。三年間、アメリカで勉学に励んでいた兄。渡米前に「すぐに戻るよ」と笑って手を振った彼の姿が、昨日のことのように蘇る。だが、月日は無情に流れ、連絡は次第に途絶えていた。兄の声は、まるで遠い記憶を呼び起こす鍵のようだった。

「兄さん……どうしたの?」

『日本に帰ることにした。もう向こうでの研究は一段落ついた。これからは、ずっと日本にいるつもりだ』

「えっ……ほんとに?」

信じられなくて、声が裏返った。胸の奥が一気に温かくなり、凍えていた心が解けていくようだった。兄が帰ってくる――その事実だけで、孤独が少しずつ薄れていく。

『お前を一人にしておけないからな。……もう、無理をするなよ、美咲』

その言葉に、涙腺が決壊した。兄はいつもそうだった。私が笑顔で振る舞っていても、内心でどれだけ自分を押し殺しているかを見抜いていた。子どもの頃、母の死後、泣きじゃくる私を黙って抱きしめてくれたあの温もりが、電話越しの声に重なる。

「兄さん……あのね、私、今日……」

言葉が詰まった。胸の奥が震え、呼吸が浅くなる。でも、どうしても伝えたかった。

「今日、赤ちゃんができたって分かったの」

沈黙。遠い異国からの電話越しに、兄が考え込む気配が伝わってくる。心臓が早鐘を打ち、冷たい風が頬を刺す。否定されたらどうしよう。責められたらどうしよう。そんな不安が頭をよぎる。

けれど、やがて穏やかな声が返ってきた。

『……そうか。おめでとう、美咲』

短い言葉だったが、そこには深い温もりが込められていた。涙が頬を伝い、冷えた指先で拭う。孤独じゃない。私の幸せを祝ってくれる人がいる――それだけで、胸の奥に小さな光が灯った。

「ありがとう……兄さん」

『安心しろ。もうすぐ会えるからな』

通話が切れた後、私は夜空を仰いだ。街の明かりが瞬き、遠くに一つだけ輝く星が見えた。お腹に手を当て、そっと呟く。

――今度は、私が守る。必ず。

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第1話
白い壁に囲まれた診察室は、消毒液の匂いが鼻をつき、どこか無機質で冷たい空気を漂わせていた。蛍光灯の光が眩しく、壁に映る自分の影がやけに薄く見えた。机の向こうで、医師がカルテをめくる音がカサカサと響く。眼鏡の奥の目が細まり、低く落ち着いた声が告げた。 「おめでとうございます。橘さん、妊娠されていますよ」 その一言が、まるで重い石を水面に投じたように、私の心に波紋を広げた。世界の輪郭がぐにゃりと歪み、時間が一瞬止まった気がした。耳鳴りがして、頭の中が白く霞む。 ――私の中に、命が宿っている。 「……え」 思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。反射的に指先でお腹をそっと押さえてみる。だが、そこにはまだ何の変化も感じられない。ただ、心臓の鼓動がやけに速くなり、全身を血が駆け巡る感覚だけがリアルだった。胸の奥で、喜びと不安がせめぎ合う。 「週数としては、まだ初期段階です。順調に育っていますが、これから気をつけることは多いですよ」 医師は淡々と説明を続けた。栄養バランス、適度な運動、アルコールやカフェインの制限、体を冷やさないための注意……。言葉の一つ一つは頭に入ってくるのに、心はどこか別の場所を漂っていた。まるで現実から一歩離れた、夢のような空間にいるかのようだった。 ――私が、母親になる? 白い部屋の中で、ふと母の面影が浮かんだ。七年前、交通事故で突然この世を去った母。いつも穏やかに微笑み、私の髪を撫でてくれたあの温かい手。事故の日の朝、最後に交わした何気ない会話――「美咲、今日も元気でね」。その声が、今も胸の奥で鮮やかに響く。母の笑顔を思い出すたび、涙腺が緩むのを抑えきれなかった。 診察室を出ると、病院の廊下は人の足音と話し声でざわめいていた。看護師の呼び出しアナウンス、患者の家族のひそひそ話、車椅子の軋む音。それらが雑踏のように混ざり合い、耳に遠く響く。私はただ、自分の靴音だけを頼りに歩いていた。頭の中は「命」という言葉で埋め尽くされ、他の音はまるで海の底から聞こえるようにくぐもっていた。 *** 病院の玄関を出ると、12月の冷たい風が頬を刺した。吐いた息が白く舞い、夜空に溶けていく。街はクリスマス前の華やぎに包まれ、ガラス張りのビルには色とりどりのイルミネーションが映り込んでいた。通り過ぎるカップルの笑い声や、子どもが母親にねだる声が
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第2話
タクシーの車窓から見える街の灯りは、どこか冷たく遠いものに感じられた。兄との通話で温まった心は、帰宅の道を進むごとに少しずつ冷えていく。胸の奥では、「哲也さんにこの知らせを伝えれば、きっと喜んでくれる」という淡い期待があった。でも同時に、どんよりとした不安が重石のように心にのしかかる。 私たちの結婚は、愛から始まったものではない。神宮寺家の恩義と、ビジネスライクな契約の産物。哲也さんの心に別の女性――私の表妹、西園寺沙羅がいることも知っている。だからこそ、妊娠という事実が彼にどんな感情を呼び起こすのか、想像もできなかった。 タクシーが神宮寺家の門前に停まる。巨大な鉄の門扉が、闇の中で冷たく光っていた。運転手に礼を告げ、芝生の庭を抜けて玄関へ。窓から漏れるシャンデリアの明かりが、豪奢なリビングの影を映し出している。だが、その光はどこか虚しく、温もりを欠いていた。 「ただいま……」 小さな声で呟き、ドアを開ける。瞬間、胸の奥に嫌な予感が走った。空気が重い。人の気配が、まるで刃のように鋭い。廊下を進み、リビングに足を踏み入れた瞬間――。 「美咲!」 鋭い声が空気を切り裂いた。ソファに腰かけた夫・哲也さんが、怒りに顔を歪めていた。隣には、鮮やかな赤いドレスを纏った沙羅が、涼しい顔で座っている。彼女の唇には、まるで獲物を嘲るような薄ら笑いが浮かんでいた。 「て、哲也さん……? どうしたの」 かろうじて声を絞り出すと、哲也さんは容赦なく怒鳴った。 「とぼけるな!」 机の上に置かれた一通の手紙を乱暴に掴み、私に向かって投げつけた。紙は宙を舞い、床に散らばる。震える指で拾い上げ、目を通した瞬間、視界が揺れた。 そこに記されていたのは――。 あの日、俺は金を受け取った。事故を装えと命じたのは、橘美咲の母親だった。標的は神宮寺夫妻。俺は言われた通りに車を走らせた。だが計画は失敗し、俺だけが罪を背負った。 「……そんな……」 頭が真っ白になった。この筆跡、この内容――まるで悪夢だ。母がそんなことをするはずがない。優しく、いつも私を第一に考えてくれた母が、なぜ? 「どういうことか説明しろ!」 哲也さんの怒声が胸を突き破る。私は必死に言葉を紡いだ。 「違う……違います! 母はそんな人じゃなかった。こんな残酷な計画なんて、絶対にありえない!」 「言い訳は聞
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第3話
翌朝十時、東京駅の改札口は人混みで溢れていた。雑踏の中、ざわめく足音や話し声が耳に遠く響く。私は人波をかき分け、懐かしい背中を探した。そして、視線の先に兄である橘英司がいた。 アメリカでの三年間が、彼を洗練された大人の男に変えていた。ダークグレーのスーツは仕立てが良く、肩幅もかつてより広く感じられた。だが、私に気づいた瞬間、彼の顔に浮かんだ笑顔は、子どもの頃と変わらない柔らかさだった。少しやつれた頬、疲れを滲ませる目元。それでも、英司の笑顔は私の凍えた心を溶かす陽だまりのようだった。 「美咲……」 彼の低い声が小さく呟かれ、私は思わず駆け寄った。英司も両手を広げ、私の肩を強く抱きしめる。その温もりに、涙がこみ上げるのを必死に堪えた。七年ぶりの再会。母の死後、孤独に耐えきれず泣き崩れた私を、黙って抱きしめてくれたあの日の記憶が蘇る。兄の存在は、私にとって最後の家族であり、唯一無二の支えだった。 だが、彼の表情はすぐに曇った。私の青白い顔、目の下の隈、やつれた姿に気づいたのだろう。英司は無言で私の腕を取り、タクシーに押し込むように乗せた。行き先は病院――私の体を心配した彼の判断だった。 タクシーの中、兄は私の手を強く握っていた。その手の力強さと温もりが、凍てついた心を少しずつ解かしていく。だが、胸の奥は依然として不安で埋め尽くされていた。哲也さんの冷たい言葉、沙羅の嘲笑、母を汚す手紙。それらが頭の中で渦を巻き、息を詰まらせる。 病院に着くと、検査室の無機質な空気が再び私を包んだ。消毒液の匂い、白い壁、機械の冷たい音。すべてが昨日の診察室を思い出させ、胸が締めつけられる。医師が検査結果を手に、静かに、だが重々しく告げた。 「橘さん、流産の危険があります。絶対安静が必要です。少しでも無理をすれば、胎児に深刻な影響が出る可能性があります」 その言葉は、雷鳴のように私の心を打ち砕いた。視界が揺れ、喉が締めつけられる。手に握った検査結果の封筒が、まるで鉛のように重かった。お腹の命を守るため、これから私は自分自身を厳しく律しなければならない。だが、その重圧は、私の心をさらに追い詰めた。 病室に戻ると、英司は椅子に腰を下ろし、拳を握りしめたまま私の話を聞いていた。手紙のこと、沙羅の告発、哲也さんの疑念――すべてを、震える声で語った。母が神宮寺
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第4話
検査室を出ると、私の足は自然と廊下へと向かっていた。頭の中は混乱で埋め尽くされている。哲也さんの冷たい視線、沙羅の嘲笑、彼の疑念――すべてが絡み合い、胸を締めつける。だが、立ち止まるわけにはいかない。お腹の命を守るため、私は前に進まなければならない。 廊下の先に、人影が見えた。哲也さん――そしてその隣には、鮮やかな赤いドレスを纏った沙羅。血の気が引く。足がすくみ、膝が震える。だが、この子を守るため、私は逃げられない。 英司の手が私の腕を支え、震えながらも歩を進める。「美咲、無理はするな」と彼は囁くが、その声は遠く、鼓膜の奥で反響するだけだった。私は勇気を振り絞り、震える声で告げた。 「哲也さん……私、妊娠しているの。だから、離婚はやめてほしい」 一瞬、彼の瞳が揺れた気がした。胸が跳ね、希望がわずかに灯る。だが、次の瞬間、冷たい怒りがその光を塗りつぶした。 「それは……新しい芝居か?」 その言葉は、鋭い刃となって私の胸を貫いた。震えが止まらず、視界が滲む。言葉を失い、ただ立ち尽くしてしまう。 「ち、違うわ! 本当なの!」 涙で声が震えるのを必死に押さえ、叫ぶ。 「哲也さんっ。お願い、信じて……!」 だが、哲也さんは私の言葉を無視するように、冷酷に続けた。 「お前の目的は地位と財産だろ。神宮寺家の支援を維持し、兄の将来を守りたいだけだ」 その言葉に、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。私はこの人を愛している。 なのに、なぜ私の言葉は届かないのか。なぜ、こんなにも信じてもらえないのか。心が砕け散るような痛みが、全身を駆け巡った。 「もう話すことはない。英司の将来を守りたいなら……離婚届に署名しろ」 彼の声は、冷たく、棘のように私を貫いた。握りしめた検査結果の封筒が、手の中で冷たく震える。絶望が心を覆い、足元が崩れ落ちそうになる。 そのとき、沙羅が甘ったるく、しかし鋭い声で割って入った。 「ごめんなさい、携帯を車に忘れてしまって……」 哲也さんは不機嫌そうに頷き、足早に廊下の奥へと消えた。残されたのは、私と英司、そして沙羅だけ。彼女はゆっくりと振り返り、氷のような笑みを浮かべた。 「男をつなぎ止められないのね。あなたの母親も夫をつなぎ止められなかった。……今度はあなたの番よ」 その言葉は、私の心を粉々に
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第5話
朝の光が室内に静かに差し込む。カーテンの隙間から漏れる光は、白い帯となって床に落ち、ゆっくりと時間を刻んでいた。 「ここ、は……」 「みさきっ?」 私を呼んだのは兄だった。 目が覚めていくと、昨日の混乱と恐怖が重い残像となって思い出された。 沙羅に突き飛ばされ、硬い床に背中を打ちつけた瞬間の衝撃。鋭い痛み。 それから自室で寝たはずだけど、なぜか病院にいる。病室の無機質な空気が私を包んでいた。 消毒液の匂い、白い壁、遠くで聞こえる医療機器の単調な音が聞こえてきた。 視線を動かすと、ベッド脇の椅子に兄が座っていた。 「美咲……」 その低い声に、私は小さく息を吐く。 目がかすかに涙で潤む。喉が締めつけられ、言葉を紡ぐ前に、ただ一つのことが気になった。 「兄さん……どうして、私。あっ、お腹の子は!?」 英司は黙ってうなずき、私の手をそっと握った。その手の温もりが、凍てついた心に染み渡る。小さな命の鼓動が、確かに私の中で生きていることを教えてくれるようだった。 「無事だ。お前の中で、強く生きようとしている」 その言葉に、胸の奥で安堵が込み上げた。 英司は深く息をつき、私の目をじっと見つめた。普段は冷静で理性的な彼の瞳に、微かな怒りの影が揺れる。 英司は一瞬、視線を逸らし、唇を固く結んだ。彼の拳がゆっくりと握られ、関節が白くなる。怒りを抑えるように深く息をつき、静かに言った。 「……お前は彼のもとに戻るつもりか?」 その言葉は優しく、だが私の決意を試すように重かった。胸の奥で、小さな命の鼓動がかすかに震える。それが、私を支える唯一の力だった。私はゆっくりと顔を上げ、英司の目を見つめた。 「もう、事故の運転手や母の無実の問題だけじゃない。哲也は選んだのよ――沙羅を。私には、私の道を選ぶ必要がある。幸い、流産はしなかった。この子は強く、生きようとしているって、私に教えてくれている。だから、どんなことをしてもこの子を守る。沙羅みたいに、子供を利用して哲也の心をつなぎ止めるような真似は、絶対にしない」 私の声は震えていたが、決意だけは揺るがなかった。英司は私の手をじっと見つめ、やがて微かに笑った。どこか懐かしい、母のような優しさがその笑みに宿っていた。 「本当に強いな。母さんそっくりだ」 その言葉に、胸が熱くな
last updateDernière mise à jour : 2025-10-11
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第6話
英司が病室を出た後、私はベッドに横になった。 横になりすぐに睡魔が襲ってきて目を瞑った。 夢の中で、哲也との初めての出会いが鮮やかに蘇るのは両親の葬儀の日のことだ。 冷たい雨が降る中、哲也は神宮寺家の代表として静かに現れた。黒いスーツに身を包み、祭壇に手を合わせる彼の姿は、どこか頼もしく、優しかった。 「美咲さん、妹のように思っている。だから、どうか無理をしないで」 その言葉は、凍てついた私の心に温かな光を差し込んだ。 その後も、哲也はさりげなく私のそばにいてくれた。疲れた日に淹れてくれる温かい紅茶、冗談を交わして笑い合う瞬間、初めて手を握ったときの鼓動。名前で呼ばれたときの心地よさ。 結婚することは、かつての私にとって最大の夢だった。あの頃の彼は、私を愛してくれていると信じていた。 だが、夢の中で彼の笑顔は次第に歪み、沙羅と手を繋ぐ姿に変わった。 沙羅の甘い笑み、哲也の冷たい視線がみえた。 『新しい芝居か?』 その言葉が、夢の中で何度も反響する。裏切りの痛みが、胸の奥で何かを音を立てて崩した。 *** 目を覚ますと、病室はまた白い静寂に包まれていた。カーテンが風に揺れ、外の光が壁に柔らかな影を落とす。英司はベッド脇の椅子に座り、黙って私を見守っていた。その温もりが、嵐のような心を少しだけ落ち着かせた。 でも、心の奥ではまだ波が渦巻いている。私はお腹に手を当て、かすかな鼓動を感じた。この子を守るためなら、どんな困難も乗り越えられる――そう自分に言い聞かせる。 そのとき、病室のドアが静かに開く気配がした。 「兄さん……?」 だが、疲れで目を開けられず、声もか細い。温かい手がそっと私の手を握る。その感触はほんの一瞬で、すぐに離れた。不思議な安堵と、わずかな寂しさが胸を満たした。
last updateDernière mise à jour : 2025-10-11
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第7話
病室のドアを静かに閉めると、廊下の冷たい空気が哲也の頬を刺した。消毒液の匂いと、遠くで響く看護師の足音が、静寂の中で不協和音のように混ざり合う。美咲が倒れた直後の混乱が、まだ胸の奥でざわめいていた。沙羅の涙ながらの訴え――「美咲の兄に責められた」「ただ彼女の体を心配しただけなのに」と、震える声で訴える彼女の姿が脳裏に焼きついている。だが、その言葉の裏に何か引っかかるものを感じながらも、哲也はそれを振り払った。沙羅は彼のそばにいる。彼女はいつもそうだった。美咲とは違い、沙羅は決して裏切らない――そう信じていた。 三十分前、沙羅が泣きながら話したとき、哲也は冷静に指示を出した。信頼する私的な助手、佐藤に、沙羅の健康状態を確認するよう命じたのだ。彼女の涙は本物に見えた。だが、どこかで心の奥がざわつき、落ち着かない。沙羅の言葉に、微かな違和感が漂っていた。美咲が倒れた瞬間、沙羅の冷ややかな目と、英司の怒りに燃える表情が交錯したあの場面。それが、まるで計算された舞台のように感じられたのは、気のせいだろうか。 廊下は再び静けさを取り戻し、病棟はひっそりとしていた。哲也は乱れた心を落ち着けようと、適当な病室のドアを開けた。誰もいないと思った。だが、薄暗い部屋の奥、ベッドに横たわる人影に気づき、足が止まる。美咲だった。彼女は眠っていて、微かな呼吸音だけが部屋に響く。白いシーツに包まれた姿は、まるで壊れ物のように儚く見えた。眉間に刻まれた皺、苦しげに歪む唇。普段の彼女とは違う、弱々しい姿に、胸の奥が締めつけられる。 近づいても、彼女は目を覚まさなかった。哲也は無意識に手を伸ばし、彼女の冷たい指先に触れた。その瞬間、なぜか心臓が強く脈打つ。彼女の手をそっと握ると、氷のような冷たさが掌に伝わってきた。 「なぜこんなに冷たいんだ?」 言葉が漏れる。自分でも驚くほど、声は低く、震えていた。 「なぜ倒れた? 最後に俺に何を言おうとした……?」 美咲の唇がわずかに動き、かすかな声が漏れた。 「……哲也……」 その一言に、哲也の心が揺れた。驚いて手を離し、彼女の顔を見つめる。だが、彼女の目は閉じたまま。夢を見ているだけだと気づいた瞬間、胸の奥に複雑な感情が渦巻いた。怒り、疑念、そして――なぜか、消し去れない懐かしさ。彼女の声が、かつての温かな日々を呼び起こす。雨の日の葬儀で、
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第8話
十分後、哲也は院長室のドアをノックした。院長は落ち着いた口調で迎え入れ、書類を手に持つ。哲也は単刀直入に切り出した。 「美咲が倒れた理由を知っているか?」 院長は眼鏡をかけ直し、慎重に答えた。 「いえ、存じません。英司さんが奥様……いや、美咲さんの検査を依頼しました。ご希望なら、記録を確認できますが……」 哲也の眉がわずかに動く。英司の名前が出た瞬間、胸の奥に苛立ちが湧いた。あの男の怒りに燃える目、沙羅を掴もうとした腕。それが、哲也の心に不信の種を植えていた。美咲と英司――二人とも、神宮寺家を裏切った人間だと決めつけたい気持ちが強まる。だが、同時に、美咲のあの苦しげな寝顔が頭をよぎる。彼女が倒れた理由、彼女が最後に言おうとした言葉。それらが、まるで謎のように心に絡みつく。 「記録を――」 哲也がさらに問いただそうとした瞬間、ドアが軽くノックされた。佐藤の声が響く。 「旦那様、沙羅様がお探しです。」 哲也は深く息を吸い、感情を押し殺した。冷たく、短く答える。 「今行く」 院長室を出ると、廊下の先に沙羅の姿が見えた。鮮やかな赤いドレスが、薄暗い病棟の中で異様に目立つ。彼女は微笑みながら近づいてきたが、その笑顔にはどこか計算された影があった。哲也の胸に、再び違和感がよぎる。沙羅の涙、彼女の訴え、妊娠の告白――すべてが本当なのか。それとも、彼女もまた何かを隠しているのか。 「哲也様、大丈夫? とても疲れた顔してるわ。」 沙羅の声は甘く、優しく響く。だが、哲也は無言で彼女を見つめた。美咲の手の冷たさ、彼女の夢の中での呟きが、なぜか頭から離れない。沙羅の手を取りながらも、心の奥では何かが見えない糸のように絡み合っていた。 *** 病棟の窓から差し込む夕陽が、廊下をオレンジ色に染めていた。哲也は沙羅を連れて病院を出るが、足取りはどこか重い。美咲の寝顔、英司の怒り、事故の真相、そして沙羅の言葉。それらが、まるで嵐の前の静けさのように、彼の心を締めつける。 ――美咲、お前は本当に俺を裏切ったのか? ――それとも、俺が間違っているのか? 答えの出ない問いが、胸の奥で渦を巻く。沙羅の手を握りながら、哲也は無意識に振り返った。病室の窓は遠く、すでに夕闇に溶け始めていた。だが、あの部屋に眠る美咲の姿が、なぜか心の奥に焼きつい
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第9話
朝の光がリビングに差し込み、窓から漏れる朝日がシャンデリアのクリスタルをキラキラと輝かせている。まるで虚飾の美しさを強調するようだった。 だが、私、橘美咲の胸の奥には、昨日の病院での出来事が重い影を落としている。 沙羅の冷たい笑みに、信じていた哲也の冷たい言葉……すべてが、まるで悪夢のように絡み合い、心を締めつけている。 それでも、お腹に宿る小さな命が、私に立ち上がる力を与えてくれる。この子を守るためなら、どんな痛みも耐えられる――そう自分に言い聞かせ、私は荷物をまとめるために自室に戻った。 部屋は静かだった。母の遺影が置かれた小さな棚が、朝の光に照らされて柔らかく輝く。スーツケースに必要最低限の服と、母の形見のネックレスを丁寧にしまった。引き出しの奥に、離婚届がひっそりと隠れているのを見つけた。白い紙に印刷された無機質な文字が、まるで私の過去を切り裂く刃のようだった。ペンを手に取り、深呼吸を一つ。震える指で、ゆっくりと署名した。 私の名前を書き終えた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた気がした。 愛していた人との、かつて夢見た未来。それらが、この一枚の紙で終わる。 荷物をまとめ終え、スーツケースを手に玄関へ向かう。足音が廊下に響き、冷たい大理石の床が靴底に響く。リビングの扉をくぐると、意外な人影に足が止まった。哲也だった。 彼はちょうど帰宅したところらしく、ネクタイを緩めながらソファに腰を下ろしていた。朝の光が彼の顔を照らし、疲れた目元に深い影を落とす。私の姿に気づいた彼の瞳が、一瞬揺れた。 「ここにいるとは知らなかったわ」 私は平静を装い、声を抑えて言った。胸の奥で鼓動が速まるが、それを悟られないよう、淡々と続ける。 「離婚届はもうサインしたから」 テーブルの上に離婚届を置き、静かに彼を見つめる。哲也は少し驚いたように眉を上げ、書類を手に取った。ざっと目を通す彼の指が、わずかに震えているように見えた。 「本当に……署名したのか……」 その声は低く、どこか戸惑いに満ちていた。私は視線を逸らし、胸のざわめきを抑える。 だが、今の彼は沙羅を選んだ。あの冷たい言葉が、耳の奥で今も響く。 そのとき、使用人がトレイにワイングラスとボトルを持って現れた。彼女は慣れた手つきで哲也のグラスに赤ワインを注ぎ、次に私
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第10話
 タクシーの車窓から、神宮寺家の豪奢な門扉が遠ざかっていく。街の景色が流れ、クリスマスのイルミネーションが色とりどりに輝く。だが、私の心はどこか静かだった。哲也との過去、愛した日々、裏切られた痛み。それらをすべて背負いながら、私は新しい一歩を踏み出す。母の家に戻り、英司と一緒に新たな生活を始める――それが、私とこの子の未来だ。 お腹に手を当て、かすかな温もりを感じる。この子は、私のすべてだ。どんな困難も、この子を守るためなら乗り越えられる。乗り越えなきゃいけない。 哲也の疑念に沙羅の策略、母の無実を巡る謎……それらに立ち向かう。いや、立ち向かわなきゃいけないのだ。私はもう一人ではないのだから。 タクシーが街を抜け、母の家へと向かう。窓の外、遠くに一つの星が瞬いていた。まるで、母が見守ってくれているかのように。その光に導かれるように、私は静かに目を閉じた。長い夜が終わり、新しい朝がやってくる――そんな予感が、胸の奥にそっと広がった。  *** 数日が過ぎても哲也の心は静まるどころか、かえって重苦しい霧に包まれていた。 美咲が去った神宮寺家の豪邸は、まるで彼女の気配に支配されているようだった。リビングのソファに残る彼女の香水の微かな香り、書斎に置き忘れた彼女の髪留め、かつて笑い合ったダイニングの記憶が蘇ってくる。 それらが、哲也の胸を締めつけていた。 彼女のいない家は、広すぎる虚無に満ちていた。
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