Masuk15歳の橘美咲(たちばな みさき)は、一場の惨烈な交通事故で両親を同時に失った。もう一台の車には、日本屈指の財閥「神宮寺グループ」の当主夫妻が乗っており、美咲の通報と救護によって命を取り留めた。 神宮寺夫妻はこの恩を忘れなかった。15歳の美咲を東京の貴族学校に入学させ、18歳の兄 橘英司(たちばな えいじ) をアメリカ・マサチューセッツ工科大学へ送り、金融を学ばせた。 さらに彼らは、マスコミの前で堂々と宣言する—— 「美咲が18歳になったら、我が息子神宮寺哲也(じんぐうじ てつや)と結婚させる」 しかし、その時16歳だった哲也には、すでに心に決めた相手がいたーー。
Lihat lebih banyak白い壁に囲まれた診察室は、消毒液の匂いが鼻をつき、どこか無機質で冷たい空気を漂わせていた。蛍光灯の光が眩しく、壁に映る自分の影がやけに薄く見えた。机の向こうで、医師がカルテをめくる音がカサカサと響く。眼鏡の奥の目が細まり、低く落ち着いた声が告げた。
「おめでとうございます。橘さん、妊娠されていますよ」 その一言が、まるで重い石を水面に投じたように、私の心に波紋を広げた。世界の輪郭がぐにゃりと歪み、時間が一瞬止まった気がした。耳鳴りがして、頭の中が白く霞む。 ――私の中に、命が宿っている。 「……え」 思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。反射的に指先でお腹をそっと押さえてみる。だが、そこにはまだ何の変化も感じられない。ただ、心臓の鼓動がやけに速くなり、全身を血が駆け巡る感覚だけがリアルだった。胸の奥で、喜びと不安がせめぎ合う。 「週数としては、まだ初期段階です。順調に育っていますが、これから気をつけることは多いですよ」 医師は淡々と説明を続けた。栄養バランス、適度な運動、アルコールやカフェインの制限、体を冷やさないための注意……。言葉の一つ一つは頭に入ってくるのに、心はどこか別の場所を漂っていた。まるで現実から一歩離れた、夢のような空間にいるかのようだった。 ――私が、母親になる? 白い部屋の中で、ふと母の面影が浮かんだ。七年前、交通事故で突然この世を去った母。いつも穏やかに微笑み、私の髪を撫でてくれたあの温かい手。事故の日の朝、最後に交わした何気ない会話――「美咲、今日も元気でね」。その声が、今も胸の奥で鮮やかに響く。母の笑顔を思い出すたび、涙腺が緩むのを抑えきれなかった。 診察室を出ると、病院の廊下は人の足音と話し声でざわめいていた。看護師の呼び出しアナウンス、患者の家族のひそひそ話、車椅子の軋む音。それらが雑踏のように混ざり合い、耳に遠く響く。私はただ、自分の靴音だけを頼りに歩いていた。頭の中は「命」という言葉で埋め尽くされ、他の音はまるで海の底から聞こえるようにくぐもっていた。 *** 病院の玄関を出ると、12月の冷たい風が頬を刺した。吐いた息が白く舞い、夜空に溶けていく。街はクリスマス前の華やぎに包まれ、ガラス張りのビルには色とりどりのイルミネーションが映り込んでいた。通り過ぎるカップルの笑い声や、子どもが母親にねだる声が耳に届くたび、胸の奥がちくりと痛んだ。 私の人生は、いつもどこかで欠けているものがあった。両親を失い、孤独と義務だけを抱えて生きてきた。神宮寺家に引き取られ、哲也さんとの政略結婚。そこに愛はなく、ただ形式的な絆だけが私を縛っていた。心から「愛されている」と感じたことなんて、一度もない。 でも、今日からは違う。お腹に宿った小さな命は、どんなに弱くても、私と共にある。この子は、私が守るべき存在だ。指先でお腹に触れると、かすかな温もりが感じられる気がした。不安と希望が交錯する中、ポケットの中でスマートフォンが震えた。 画面に表示された名前を見て、息が止まった。 ――兄さん。 「もしもし!」 慌てて応答すると、懐かしい低い声が耳に響いた。 『美咲、久しぶりだな』 涙がこみ上げた。三年間、アメリカで勉学に励んでいた兄。渡米前に「すぐに戻るよ」と笑って手を振った彼の姿が、昨日のことのように蘇る。だが、月日は無情に流れ、連絡は次第に途絶えていた。兄の声は、まるで遠い記憶を呼び起こす鍵のようだった。 「兄さん……どうしたの?」 『日本に帰ることにした。もう向こうでの研究は一段落ついた。これからは、ずっと日本にいるつもりだ』 「えっ……ほんとに?」 信じられなくて、声が裏返った。胸の奥が一気に温かくなり、凍えていた心が解けていくようだった。兄が帰ってくる――その事実だけで、孤独が少しずつ薄れていく。 『お前を一人にしておけないからな。……もう、無理をするなよ、美咲』 その言葉に、涙腺が決壊した。兄はいつもそうだった。私が笑顔で振る舞っていても、内心でどれだけ自分を押し殺しているかを見抜いていた。子どもの頃、母の死後、泣きじゃくる私を黙って抱きしめてくれたあの温もりが、電話越しの声に重なる。 「兄さん……あのね、私、今日……」 言葉が詰まった。胸の奥が震え、呼吸が浅くなる。でも、どうしても伝えたかった。 「今日、赤ちゃんができたって分かったの」 沈黙。遠い異国からの電話越しに、兄が考え込む気配が伝わってくる。心臓が早鐘を打ち、冷たい風が頬を刺す。否定されたらどうしよう。責められたらどうしよう。そんな不安が頭をよぎる。 けれど、やがて穏やかな声が返ってきた。 『……そうか。おめでとう、美咲』 短い言葉だったが、そこには深い温もりが込められていた。涙が頬を伝い、冷えた指先で拭う。孤独じゃない。私の幸せを祝ってくれる人がいる――それだけで、胸の奥に小さな光が灯った。 「ありがとう……兄さん」 『安心しろ。もうすぐ会えるからな』 通話が切れた後、私は夜空を仰いだ。街の明かりが瞬き、遠くに一つだけ輝く星が見えた。お腹に手を当て、そっと呟く。 ――今度は、私が守る。必ず。五年後の東京から少し離れた都内。静かな住宅街に建つアパートの窓を、朝の柔らかな陽光が優しく照らしていた。 カーテンの隙間から差し込む光が、木目の床に淡い模様を描き、キッチンではトーストの香ばしい香りが漂っていた。橘美咲は、双子の子どもたち――陽斗(ひろと)と美月(みづき)――に朝食を用意しながら、彼らの笑顔に心を癒されていた。陽斗は活発で好奇心旺盛、キッチンのテーブルでスプーンを剣に見立てて遊び、牛乳をこぼしそうになるたびに美咲を笑わせた。美月は少し内気だが優しい心の持ち主で、テーブルに広げた絵本をそっとめくりながら、時折ママに微笑みかける。二人は五歳になり、日に日に父親のことを尋ねるようになっていた。 「ママ、お父さんはどこにいるの?」 陽斗が無邪気に問うと、美咲の心が一瞬、鋭く締めつけられた。トーストを切る手が止まり、彼女は深呼吸して笑顔を浮かべた。「お父さんは遠いところで働いているの。いつか必ず帰ってくるわ。」 その言葉は、子どもたちを安心させるための優しい嘘だった。 哲也との離婚から五年、彼女は彼のことを子どもたちに話さないと決めていた。胸の奥にしまっていた痛みが、そっと疼く。陽斗は「ふーん」と頷き、トーストにかじりついた。美月は少し心配そうにママの顔を覗き込んだ。「ママ、さびしくない?」 美咲は美月の髪を撫で、笑顔で答えた。「あなたたちがいるから、ママは大丈夫よ。」 だが、心の奥では、哲也の笑顔、雨の日の葬儀で握ってくれた温かな手、裏切りの言葉――すべてが複雑に絡み合っている。もう五年経ったというのに、昨日のことのように思い出される。 アパートのドアが静かに開き、英司が入ってきた。スーツ姿の彼は、五年で大きく変わっていた。今は自ら立ち上げたIT企業が急成長し、若き経営者として注目を集めていた。ネクタイを緩めながら、彼は美咲に微笑む。「美咲、今日もホテルのシフトか? 子供たちは俺が送るよ。」 その声は優しく、だがどこか遠慮がちだった。英司の目には、かつての兄妹のような温もりが宿っていたが、深いところでは別の感情が隠されていた。 彼は血のつながりのない義兄だと知りながら、美咲の心を癒すために本当の素性を隠し、ただ支え続ける道を選んでいた。 美咲が哲也を忘れられないことに気づいた日から、彼の想いは封印されていた。だが、陽斗が「
病院の院長室は、消毒液の匂いと静寂に包まれていた。哲也は院長に、あの日の美咲の検査記録を確認するよう命じた。 一度拒否をされたが、院長は一つのファイルを手に戻ってきた。美咲の名前が書かれたカルテだった。 院長が1ページ1ページをめくって確認する中、哲也の焦燥は募る。やがて、院長が一枚の紙を手に、静かに差し出した。 「これですね、橘美咲さんの妊娠検査の結果。陽性です。初期ですが、流産の危険があるため、絶対安静が必要と記載されています」 哲也の心臓が止まるかと思った。妊娠――美咲の言葉は本当だった。彼女が倒れた理由……すべてが繋がり、胸を締めつける。 彼女は本当のことを言っていたのに、なぜ信じられなかったのか。 怒りに燃え、哲也は病院の管理者全員を呼びつけた。 「美咲の妊娠を知っていたのは誰だ? 彼女の行方は? 答えろ!」 だが、誰も答えられなかった。医師も看護師も、ただ困惑した顔で首を振る。美咲の妊娠を知る者は担当医師しかいない。それに彼女がどこに消えたのか、誰も知らなかった。 哲也の拳が震え、胸の奥で怒りと後悔が渦を巻く。彼女を信じなかったこと、彼女を追い出したこと、そして、彼女が守ろうとした命を無視したこと――すべてが、取り返しのつかない過ちのように感じられた。 病棟の窓から差し込む月光が、哲也の影を長く伸ばしていた。彼は立ち尽くし、胸の奥で答えのない問いが響く。 ――美咲、お前はどこにいる? ――俺は、お前を本当に失ったのか? 静寂の中、哲也の足音だけが、冷たい廊下に響き続けた。
その夜、哲也は沙羅が滞在するホテルを訪ねた。彼女は部屋のソファに座り、涙で目を赤くしていた。 哲也が運転手のことを尋ねると、沙羅は震える声で答えた。 「何も覚えていないの……あの頃、私は誘拐されて、すべてが曖昧なの。誰かに脅されて手紙を受け取っただけ……信じて、哲也様」 彼女の言葉は、まるで霧のように頼りなかった。哲也を引き止めようと、沙羅の手が彼の腕に伸びる。だが、哲也の心は冷えていた。 彼女の涙に、かつて感じた信頼が揺らぐ。口実を作り、哲也は足早に部屋を後にした。ホテルのエレベーターが閉まる瞬間、沙羅の泣き顔が脳裏に焼きつくが、彼はそれを振り払った。 事務所に戻ると、秘書兼執事の佐藤が待っていた。緊急の報告だという。 「旦那様、弁護士から連絡がありました。前夫人の口座に慰謝料を振り込めません。口座が解約され、連絡も取れません。まるで姿を消したようです」 哲也の眉が深く刻まれる。美咲が消えた? 彼女のあの決然とした表情、“さようなら”という言葉が蘇る。胸の奥で、何かがひび割れるような感覚がした。 「では、兄を探せ。橘英司はアメリカ支社と協力していたはずだ。記録があるだろう」 佐藤は一瞬、躊躇するように視線を落とした。「確認しました。しかし、橘英司も行方不明です」 哲也の顔がさらに曇る。美咲と英司、二人ともが忽然と消えた。 胸のざわめきが抑えきれず、哲也は病院へと車を走らせた。あの日の美咲の言葉……妊娠している、という告白が頭の中で反響した。 あれは本当だったのか。それとも、彼女の最後の芝居だったのか……俺は何もかもわからなかった。
美咲が離婚届に署名し、タクシーに乗って去ったあの朝から、哲也は家に戻ることを避けていた。都心のホテルの一室で過ごし、仕事に没頭することで心のざわめきを押し殺す。だが、夜になりベッドに横たわると、彼女の寝顔が脳裏に浮かんだ。 病院で見た、苦しげに眉をひそめた美咲の姿。冷たい手の感触。そして、夢の中で呟かれた自分の名前――『哲也』と言う声。 あの声が、なぜか胸の奥に棘のように刺さっていた。 その日、両親からの突然の連絡が哲也を現実に引き戻した。三か月の海外旅行を終えた彼らは今から帰宅して息子夫婦を訪ねたいという。 哲也の心臓が跳ねた。美咲との離婚をどう説明すればいいのか。 彼女の裏切りに母を奪った事故の告発、沙羅との関係――すべてを話す覚悟が、まだできていなかった。急いでタクシーに飛び乗り、神宮寺家の門をくぐると、予期せぬ光景が目に入った。 リビングには沙羅がいた。鮮やかな赤いドレスをまとい、まるでこの家の主のように振る舞っている。 召使いが彼女の荷物を運び込み、クローゼットから美咲の服を無造作に取り出して庭に放り出していた。まるで悪魔のようだった。それを見て哲也の血が逆流する。 「何してるんだ、沙羅! やめろ!」 だが、言葉を終える間もなく、玄関のベルが鳴る。両親だった。父の厳格な顔と、母の鋭い視線が、部屋に入るなり沙羅に突き刺さる。母の声は氷のように冷たかった。 「この女は何? 美咲さんはどこにいるの? 哲也?」 沙羅が口を開く前に母は警備員を呼び、彼女を即座に追い出すよう命じた。沙羅は青ざめ、泣きそうな顔で哲也を見たが、彼は視線を逸らした。 警備員に連れられ、彼女が門の外に消えると、母は哲也に説明を求めた。 「全て、話してちょうだい」 哲也は重い息をつき、例の運転手の手紙について語った。七年前の事故、美咲の母が神宮寺夫妻を事故に見せかけて殺害しようとしたという告発のことを。 だが、言葉を紡ぐほど、母の顔は怒りに曇っていった。 「そんな手紙……運転手が目の前で自白しない限り信じません。三か月以内にその男を見つけなさい、哲也。さもなくば、お前がこの家の名を汚した責任を取りなさい」 母の言葉は、まるで刃のように哲也の胸を刺した。父もまた、無言で頷き、その場を去る。哲也は立ち尽くし、手紙の重みを自分がしてしまったことを改めて恥じた。